2016/05/26

もう片方

まことに情けないことだが、作家は割符を書く。
他の片方の割符は読者に想像してもらうしかないのである。
どんなすぐれた作品でも、50%以上書かれることはない。
小説は、いわば作り手と読み手が割符を出しあったときにのみ
成立するもので、しかも割符が一致することはまずなく、
だから作家はつねに不安でいるのである。
(ひろい世間だから、自分と同じ周波数をもった人が
 二、三千人はいるだろう)
と、私などは思い、それを頼りに生きてきた。
(司馬遼太郎/『以下、無用のことながら』「私事のみを」冒頭)


司馬さんは小説の世界のことを書いています。
小説は、世に出たときには完成品で
読み手の反応を見てから中身を変えることは出来ない点で
コミュニケーションとは違う、と言えば言えるのですが、
骨格は同じだと思います。



設計を進めるうえで必要な、決めなくてはならないこと、
大事なこと、法で強制的に決められることの9割を、
施主(家を建てる人とその家族)の9割は、
生まれて初めて聞くことになります。
(数字は私の体感による)
とても当たり前のことです。

それら未知のことを、小さなこともひとつ残らず、
しかも施主が理解できない単語をひとつも使わず、
完璧にわかりやすく話すことが出来たとしても、
相手が別のことを考えていて全く聞いていなかった、
ただそれだけで『コミュニケーション』の
達成度は50%止まりになります。

自分の仕事(説明すること)を100%達成したとしても、
コミュニケーション全体としてはようやく50%。
相手が半分を持っているのです。

まして、自分が100%伝えきっている、
ということも現実にはあり得ないことです。
だからこそ、その達成度を高めるために、
知識・知見・言葉をできるだけ増やす努力を
たぶん一生やめるわけにはいかないと思います。

話の受け手もただ黙って座っているだけで
コミュニケーションの50%を全うできるとは言えない。
お客様である施主にも、理解するための勉強、努力は
いつもお願いしています。

私自身も、施主の要望を聞くとき
ただ言葉通りにメモを取るだけでは
『聞いた』とは言えない、と思っています。
要望は、家を作るための部品ではなくて、
施主(個人ではなく家族)の人柄を理解するための
手がかりに過ぎないので、
積極的に理解をしていく努力が常に必要です。

伝えるための努力、受け取るための努力を
何ひとつしていないままでは
コミュニケーションの達成度は著しく低くなります。

どんな場合でも同じことが言えるのかもしれません。
家族、友人、恋人、同僚、取引先…

自分と、相手で、ひとつの存在。
自分は、相手にとっての「もう片方」。

そんなことを思う機会が、このところ重なってしまって
考え込んでいました。